数学的真理を他人と共有できるというのは考えてみれば不思議なことだ。もちろん、ヒトの思考パターンのうち共有可能な部分が(発見されて定式化されると)数学になるのだとも言える。*1
さて、次のような感覚を持つ人はいるだろうか:数学的真理が自分の心のあり様そのものだと感じ、自分以外の人間が数学をすることは即ち自分の心の内が詮索されることだと捉える感覚。このように感じる人にとって、この世はおそろしく奇妙な場所だろう。自分の生まれる遥か以前から、自分のことが研究されてきた。学校で「数学」という科目で教えられていることは、自分の極めてプライベートな事柄である。他人の心の内を覗くことはできないのに、自分の心の内はなぜか全世界に(時空を超えて)筒抜けである。
彼は公理に近いレベルの議論ほど“恥ずかしい”と感じる、かもしれない。中間値の定理をデデキントの切断から厳密に証明するような議論が彼には耐えられない。「確かに、俺の心はそのようになってはいるけど、わざわざ詳細に指摘しなくたっていいじゃないか!まして、そんなことに名前を付けたりしないでおくれよ!」と。
そんなことはないのか。
メモ:
- 多様体愛護協会の気持ちはここで述べたこととは対称的。数学的対象が人類の外側に実在していて、しかもそれらが「生きている」と思う気持ち。
- 素数の歌の気持ちも、多様体愛護協会のそれと通じる。ところで、加藤和也さんのこのインタビュー:「素数の歌はとんからり…」(pdfファイル)は滅法おもしろい。
*1:ただ、そう言ってみたところで議論は前進しない。この種の問題について実りのある議論をするのはとても難しい。